プロレゴメナの要約 第1弾 序文について

おはこんばんにちはsenehataです。

今回はプロレゴメナの要約をしていこうと思います。プロレゴメナとは何かというと簡単に言うと、カントが書いた純理の解説書のようなものです。

 

そして今までは純理の要約をしていましたが、一旦純理の要約を休止してプロレゴメナの要約をしていこうと思います。↓前回の純理の記事

純粋理性批判の要約 第3弾 感性の形式としての時空論
おはこんばんにちはsenehataです今回は前に行ったカントの純粋理性批判の要約の続きをします。前回の解説記事はこちらです前回で序論の解説が終わり、これから本論の解説に入ります。ところで私が参考にしている純理は光文社古典新訳文庫から出されて...

 

理由としては以下の通りです。

  • 純理は読了したものの、理解度は5%くらい。そのまま要約しようとしても多大な時間がかかる。それにそもそも純理本書のボリュームがかなり大きい(解説合わせて文庫本3000ページほど)
  • 超大書の本を最初からコツコツ要約するのは今のままだと何十年も掛かるだろうし、この調子だと純理の全体像がなかなか把握できず木を見て森を見ず状態になる
  • プロレゴメナといった解説書や純理の解説書はたくさん出版されている

 

僕はすでにプロレゴメナも読了済みなのですが、その解説書である「カント哲学の核心 「プロレゴーメナから読み解く」」[1]という日本人のカント研究者が書いた本も読みました。

この本がすごい平易で分かりやすかったので、まずはこの本をもとにプロレゴメナについて要約していく方針です。

 

また、今まで書いた純理の記事の知識を前提として書いていくので、読んでいただけると今後の要約が読みやすくなると思います。

純粋理性批判の要約 第3弾 感性の形式としての時空論
おはこんばんにちはsenehataです今回は前に行ったカントの純粋理性批判の要約の続きをします。前回の解説記事はこちらです前回で序論の解説が終わり、これから本論の解説に入ります。ところで私が参考にしている純理は光文社古典新訳文庫から出されて...

 

プロレゴメナを著す意図

他の諸学は、いずれも不断の進歩を遂げつつあるのに、自ら智慧そのものを持って任じ、何人もそのありがたいお告げに伺いを立てているところの形而上学だけは、相変わらず同じ場所で堂々巡りしていて一歩も前進しないのは、いかにも笑止である。

[2] p10-11

カント以前の形而上学はまだ拠り所のない不安定なぐらついた学問であったようだ。

いや、形而上学は学問として見せかけているだけである可能性もある。なぜなら、大方の賛同を得られるような理論が形而上学には存在しなかったようだからだ。

 

したがって、カントはそもそも形而上学は学問として成り立つことが可能なのかを問うと決め、それについて論じたのが純粋理性批判であり、プロレゴメナである。(以下引用参照)

ところで私が本書を著した意図は、およそ形而上学の研究に価値を認めるほどの人達に、次の一事を得心させるためにある、(中略) 何よりもまず「いったい形而上学のようなものは可能であるのかどうか」という問いを提起することが是非とも必要だ

[2]  p10

ただし、純理には多くの曲解に晒されたことから、プロレゴメナの執筆にはその誤解を払拭するという目的もある。現にプロレゴメナは純理の後に出版された。

 

独断論的まどろみ

上に述べたデイヴィッド・ヒュームの警告こそ十数年前に初めて私を独断論的まどろみから眼ざめさせ、思弁哲学の領域における私の研究に、それまでとはまったく異なる方向を与えてくれた

[2]  p19

カント哲学をかじったことがある方なら、独断論的まどろみという言葉を聞いたことがあるかもしれない。この言葉はプロレゴメナにおいて初めて登場する。

ヒュームについては過去記事ではイギリス経験論の代表者として画像だけだが登場している。

純粋理性批判の要約 第1弾 用語の基礎知識(&動画解説について)
(追記)動画撮ったのですが、色々誤りがあったので一旦公開中止します!ですけど、動画で使ったパワポは下に置いておきます。おはこんばんにちはーsenehataです。今回は初の試みなんですけど、Youtube上で純粋理性批判の解説動画を上げてみま...

 

そこではヒュームの言説を扱わなかったが、今回は独断論的まどろみから眼ざめさせてくれたヒュームの思想を紹介する。

ヒュームの主張を端的にいうと、原因と結果との結合の必然性を習慣に求めたことだ。解説書の説明が分かりやすいので引用する。

ひどくゆすった炭酸飲料のペットボトルからふたを取ったとき、炭酸飲料が溢れ出たとしよう。この場合、私たちはペットボトルをひどくゆすったことが、炭酸飲料が溢れ出たことの原因であると考える。しかし、この判断は、かつて炭酸入り飲料の瓶をひどくゆすったときにいつでも飲料が溢れ出たがゆえに、両者を結合する習慣が心に生み出されたことに由来するというのである。

[1] p32

 

これより、ヒュームは原因と結果との結合を習慣に求めたゆえに、アプリオリな概念に基づいて原因と結果が結びつくことは無いとし、さらに推理する能力である理性を原因と結果の結合に適応することは誤りであるとした。

しかし、これでは経験に依存せず、理性によって構築される形而上学そのものを否定することに繋がってしまう。

 

この警告がカントの独断論的なまどろみから眼ざめさてくれたわけだが、独断論的とはそもそもどういう意味かを解説する。

それは、理性の批判を経ることなしに何らかの学説を述べるようなことである。批判とは、一般的に使われる「誤りを指摘して正す」というような意味ではなく、ここでは私たちを理性的存在として何を知ることができて、何を知ることができないかを「分ける」という意味で用いる。

純粋理性批判という名前に含まれる「批判」も同じ意味合いを持つ。

 

まどろみから眼ざめたカントが採る戦略

独断論的なまどろみから眼ざめたカントはどのように考えたのだろうか?

そこで私は、これらの概念(事物の結合)の数がいくつあるかを確かめてみた、そしてこのことが私の希望した通りに、すなわちただ一個の原理[アプリオリな総合的統一]に基づいてなされ得たので、私は次にこれらの概念[カテゴリー]の演繹に着手した。こうして私はかかる概念がヒュームの気遣ったように経験から導来されたものではなくて、純粋悟性から発生したものであることを確認できたのである。

[2] p21 ()は引用者

要点を以下にまとめる

  1. ヒュームは事物の結合について何よりも原因と結果の結合を考えたが、カントは改めて事物の結合に関わる諸概念を原因と結果の結合以外も含めて再確認した。
  2. 事物の結合の概念の数を、アプリオリな総合的統一(総合的判断?)という原理に基づいて確定した。
  3. 事物の結合の諸概念は、純粋悟性から生じることを確認。(超越論的演繹)

 

1は今までの話から理解できるだろう。2と3の詳細については後ほどプロレゴメナで解説される。

疑問に思ったのが、総合的統一という語の意味である。解説書では判断と書いてあったことから、総合的統一と総合的判断は同じ意味なのかと現在推測している(ここについては要約を進めていく上で改めて解説する)

総合的判断の意味は過去記事を参照→https://senehata.com/philosophy_critiqueofpurereason_summary_2/#toc3

超越論的の意味も過去記事を参照。(「アプリオリな概念を認識しようとすること」を問うこと)→https://senehata.com/philosophy_critiqueofpurereason_summary_2/#toc5

 

純粋悟性については次の章で詳しく解説する。

 

純粋悟性とは何か

純粋という形容詞については、純理では「経験的なものを全く含まない」という意味。(https://senehata.com/zakki-2023-9-8/)

 

悟性について話す前に簡単に純理の構成について触れる。

純理ではまず最初に感性について詳しく論じる章(超越論的感性論)があり、その次に悟性について論じる章(超越論的分析論)が続く。この章ごとに悟性の説明が変わるのでそこを念頭に説明する。

 

超越論的感性論では、悟性は認識を念頭に説明される。認識については過去の章でも解説した。→https://senehata.com/zakki-2023-9-8/

ここでは、認識は感性と悟性が両方あることで初めて生まれるものとした。悟性は感覚器官が直観した対象の像を比較したり、結び付けたり、分離したりして認識を作ることができる。

 

それでは超越論的分析論では、どのようにして説明されるのだろうか。純理の一節を引用する。

これまで本書では、悟性とは感覚によらない認識能力であると、単に消極的な形で説明してきただけだった。
p49 [3]

わたしたちは、悟性のすべての振る舞いを結局のところは判断とみなすことができる。だから、悟性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
p51[3]
(※本書では悟性を知性と呼ぶが、ここでは悟性とする。)

詳しい成り行きはまた別の記事で解説する予定だが、ここではとりあえず、悟性は判断を下す能力とされることを抑えてほしい。

判断とは、主語と述語の関係について考えることである。

例えば、「すべての金属は物体である」という判断を下す能力が悟性ということになる。

 

前の章の話をまとめると、経験的なものを全く含まない判断を下す能力から事物の結合の諸概念が生まれることを確認したということだ。これについても後の章で詳しく解説される。

 

まとめ

今回の要約はプロレゴメナの序文の箇所。次の記事では、諸言を要約する予定だ。まだ本題の各論に入らず全体論についてなのだが、ここを丁寧に読めればカント哲学の全体像に対する理解を少しでも深められると思う。

 

引用・参考文献

 

余談

ヒュームの思想については実は昔はてなブログで書いたりしてた

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