おはこんばんにちはsenehataです
今回は前に行ったカントの純粋理性批判の要約の続きをします。
前回の解説記事はこちらです

前回で序論の解説が終わり、これから本論の解説に入ります。ところで私が参考にしている純理は光文社古典新訳文庫から出されている中山訳なのですが、この本の後ろには解説が付随しています。
純粋理性批判は難解な文章でいきなり本文を上手く要約できる自信がないので、回り道のようですがまず解説の内容を要約して、その上で本文の要約をする計画を今のところ練っています。
したがって、今回の記事は中山訳の解説のそのまた要約記事ということになります。
それと一つ注意してほしいことは前回までの解説記事を読んでいる前提で話を進めていくので、前回の記事を読んだ上で本記事を読まれることを推奨します。
感性の定義
要約第一弾で触れたが、人間の認識は二つの構成物でできている。
一つ目が感覚的な印象で受け取ったもの。二つ目が人間固有の認識能力(知性が持つ能力)が生み出すもの。
この感覚的な印象(対象の像)を受け取る能力のことを「感性」と呼ぶ。
感性の重要な特徴としては、受動的でアポステリオリに直観によって知覚の素材を与えなければならないことが挙げられる。
受動的とは、外部の対象や人間の内部の要因から触発されなければ感性は働かないことを意味する。
感性で認識するための二つの条件 「素材」と「形式」
感性で対象を認識するには二つの条件が必要だとカントは考える。それは経験の「素材」と「形式」だ。
人間が対象を現象として認識するには、物の側に素材と形式が必要であり、人間の感性の側にも素材と形式が必要である。
素材に関しては、現象を作り出す物自体の側から見た「素材」と人間の感性の側から見た「素材」は同じものである。人間の知覚した印象がそれぞれの素材となる。(人間の知覚した印象の素材は物自体な気がするのだが、解説を読んでも腑に落ちなかった箇所)
物の側の「形式」については、「現象のうちには、そこに含まれる多様なものを特定の関係において秩序づけることができるものがあるはずであり、これを現象の形式と呼ぶ」と言っている。
次節では人間の側から見た「形式」を考える
「感性の形式」を探る思考実験
人間の感性の側から見た形式、すなわち感性の形式はどのようなものなのか。これを考察するに当たって、カントは素材を与える現象の側に還元を施す。
まず物体に付随する性質を取り除いてみる。
わたしが物体について心に描く様々な像のうちから、実態、力、分解可能性など、知性が考え出したものを取りのぞいてみよう。次に物体の像のうちから、不可侵入性、硬さ、色など、感覚に属するものを取り除いてみよう。それでもこの経験的な直感のうちにはまだ何かが残っているのである。それが物体の「広がり」と「形」である。
このように物体を還元してみると、空虚な空間が残る。すべての対象はこの空間に必ずあるものとして知覚される。
空間と時間は「感性の形式」である
人間が認識するのは外的なものだけでなく、人間の心や意識も認識の対象となる。しかし、そこには空間は存在せず、自我と意識の流れが存在する。カントはこの流れを意識するには時間という形式が必要だと考える。
もちろん外的なものを知覚するときも時間の流れは必ず知覚されるので、感性の形式の条件には必ず時間も含まれる。
したがって、感性の形式として空間と時間が取り出されるのだ。
(自分なりの考え:夢の中という内的な思考だと空間は存在する気はする。また、動いている物体を知覚するときはさておき、静止した物体を直視しているときに時間の流れを意識しないこともあると思う。となると時間の流れは必ずしも感性を行使する際の形式として無ければいけないものなのか?)
参考文献
カント 中山元(訳) (2010) 純粋理性批判1 光文社古典新訳文庫
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