純粋理性批判の要約 第2節 序論について

おはこんばんにちはsenehataです。

今回はかなり前に行ったカントの純粋理性批判の解説の続きをしていこうと思います。

 

前回の解説記事はこちらです。

純粋理性批判の解説動画を作ってみた(要約 第1節)
おはこんばんにちはーsenehataです。今回は初の試みなんですけど、Youtube上で純粋理性批判の解説動画を上げてみましたースライドのpdfです。自由にダウンロードしてください↓純理_解説vol1まあ内容は上に貼った動画を見てほしいんで...

 

前回は解説動画を作ってみた。という記事で動画で解説をしているのですが、今回からはまずは文章で解説していこうと思います。そして余裕があれば動画にする予定です。

それと一応前回の動画で使った解説スライドを下に貼っておくので参考にすると良いと思います。これからの解説はこのスライドを読んでいる前提でしていきます。

純理_解説vol1

 

カント以前・カント以後

純粋理性批判とは何を成し遂げた書物なのかここで一度振り返りたい。

カント以前・カント以後という言葉が哲学史で使われることがあるようだ。これはどういう意味かというと、哲学史をカントより前の哲学と後の哲学をカントを基準にして二分して考えられるということだ。

では実際にカントはどのような仕事を成し遂げてきたのだろうか。訳書の解説にかなりまとまった解説があるので、それを引用させていただく。

カントのうちに流れ込んだのは、英知界と感性界の対立と、叡智界をどのようにして認識するかというプラトンの問い、近代の哲学に至るまで「認識と事物の一致」として定義された真理の問い(これはプラトンからライプニッツに至るまでの全ての哲学者の問いである)、アプリオリとアポステリオリな認識方法の違いについてのアリストテレスの問い、人間が対象を認識するための手段は何かという近代の認識論の問い、人間には生得的な観念が存在するのか、それとも全てを経験によって認識するのかというデカルトとロックの問い、主観である精神が、客観である物質をどのように認識するのかという心身問題の問い(デカルトに始まる問いだ)、人間は自然法則をどのようにして認識することができるか、自然科学の法則はどのようにして真理であるかというニュートンと自然科学の問い、そして自我とは何か、心とは何か、人間にはどのような認識能力があるかというフロイトにつながる問いなど、錯綜する無数の問いに、カントによってひとまず回答が示されたのである。

かなり長い引用になってしまったが、要するにカントは古来から論じられてきた数々の哲学上の難問に対して純粋理性批判の中でとりあえず答えを示したということだ。

 

アプリオリな認識の基準 ー 必然性と普遍性

上に貼ったスライドの中でも言及した純粋な認識と経験的な認識を確実に区別する基準はどのようなものかを考えてみる。

その基準とは二つあって、必然性と普遍性であるとカントは言う。

必然性とは、ある命題が同時に必然的なものとして考えられるものの性質である。この必然性を持つ判断はアプリオリな判断とみなされる。

次に普遍性とは、厳密な意味で普遍的な命題であり、そもそも例外というものが起こり得ないような命題であれば、それは経験によって得られた命題ではなく、絶対的な意味でアプリオリに妥当する命題であると言える。(純理006)

 

分析的な判断と総合的な判断について

主語と述語の関係について語っている全ての判断は二種類に分けることができる。

一つ目は述語Bが主語Aのうちにあり、Bという概念がこのAという概念のうちに隠れた形で既に含まれている場合でそれを分析的な判断と呼ぶ。

二つ目はBという概念が全くAという概念の外にあり、単にこの概念に結び付けられているだけの場合であり、これを総合的な判断と呼ぶ。

 

カントは分析的な判断の例として、「全ての物体は広がりを持つ」を挙げている。これは物体という概念を意識した段階で広がりを持った物体が概念として意識できるから分析的な判断と言っていると思われる(? 若干真意が分からなかった。)

また、総合的な判断の例として、「全ての物体は重さを持つ」を挙げている。これは「物体」という概念が私の全体の経験の一部であり、経験の対象となるものだから、これに他の経験の部分である重いという述語を付け加えることができるという。(そうなら、広がりについても経験の一部だと思うので「全ての物体は広がりを持つ」も総合的な判断のように思えてしまうのだが、、?)

 

ある未知のもの(X)について

ところでアプリオリで総合的な判断はどのようにして成り立つのが可能なのかとカントは考える。アポステリオリで総合的な判断であれば、経験が主語と述語を結びつけるものであると分かるが、アプリオリだとそうはいかない。

なので、とりあえずここではアプリオリで総合的な判断である主語と述語を結びつけるものを未知のもの(X)として命名する。

 

「超越論的な」の意味

この先純理では「超越論的」という用語がたびたび出現する。なので、ここで超越論的という用語の意味を引用しておきたい。

わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能な限りで、私たちが対象を認識する方法そのものについて考察する全ての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。

「アプリオリな概念を認識しようとすること」を問うことは超越論的なものであると考えれば良いと思う。

 

まとめ

前回の第1節の記事と今回の第2節の記事で、純理の序論に関する要約解説は全て完了した。次回はとうとう純理の本題に突入していく。初めは「超越論的な感性論」について論じられる。要するに時間と空間と感性の関係について論じる章だ。

次回の更新はだいぶ先になる気がするのだが、気長に要約はやっていきたいと思う。

 

 

参考文献

カント 中山元(訳) (2010) 純粋理性批判1 光文社古典新訳文庫

 

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